高等教育無償化の議論って論点微妙じゃない?
こんにちは、kisseです。
最近、高等教育無償化についての議論が各地で起こってますよね。
基本的に、巷の意見についてまとめると、
- 教育は個人に利益が発生するから、高等教育は無償化せずに個人で負担するべきだ
- 経済的、家庭的問題で進学を諦める人がいるから、高等教育は無償化するべきだ
だいたい上記の2つの意見に大別することができるんじゃないでしょうか。
まあどちらも意見もわからなくないんですが、
その議論的外れですよ。
って僕は常々思ってます。
そのように僕が考える理由と、ではどうするのが良いかという2点について、一有権者として語ります。
視野が狭すぎる
教育無償化についての議論の際によく出る論点は
- 誰のために教育を無償化するのか
- 誰がどのように負担するべきなのか
という点のみです。
しかしこれでは議論が絶対に進みません。
なぜなら、全員が共有できるビジョンを持っていないからです。
結局、個人の経験やどのような教育を受けてきたかで、立場や見え方が簡単に変わってしまうために、意見がまとまらなくなるんですね。
そもそも、教育とは?まで立ち返ることが必要でしょう。
僕の場合、教育は個人のものだけではなく、社会を構成するためのシステムの一部であると考えています。
例えば、国家が情報社会を進めるためにはIT系の人材が必要になりますよね。
つまり、IT系の教育を進める必要があるわけです。
それなら、情報系の学部を増やすなり、定員を増やすなりすれば、少なくとも教育インフラは整うことになりますよね。
国家の社会構成のためなので、そのお金は国家(つまり国民)が出すべきですね。
別の例を考えてみましょう。
国家はある娯楽に関して、それは国家に必要がないと判断したとします。
つまりそれのプロフェッショナルを教育するために、お金をかけません。
一方で、その娯楽のプロになりたい人もいるでしょう。
そういった人は自分でお金を出す必要がありますね。
以上で2つの例を挙げました。
そのどちらでも言及されていたのが、その教育は国家に必要であるか、という点ですね。
国家がお金を出すかどうかの議論なので、その教育は国家に利するものであるかを確認する必要であると思います。
結果、お金を出す分野と出さない分野が決まります。
さらにお金を出す分野では、何人分の教育を出すのかというのも決まりますね。
では、お金を出す人数以上にその分野への志望者が現れた場合はどうするか。
そこで、初めて入試の話が出てきます。
入試に関しても、議論が活発ですが僕の意見は長いのでカットですね。笑
このように、お金を出す人を入試で選出することによって、より効率の良いお金の使い方になると思います。
勉強する人間と、しない人間のどちらにお金をかけるべきかは明白ですから。
結果として入試に落ちたがその分野に進みたい人が自費で大学に行くことになります。
逆に視野を広く取りすぎ
視野が狭すぎるために議論ができない話をしましたが、逆に視野を無駄に広く取りすぎることで課題の解決から遠のいてるなって感じる部分もあります。
それは、経済的に困窮してる学生への対応です。
僕は、経済的に困窮している人への支援は必要であると考えています。
本来、チャンスは平等に与えられるべきであると考えていますので。
しかし、それを教育の分野として議論するのは違うと思います。
それは、福祉でしょう。
経済的に困窮している人への対応は福祉の分野で議論されてますよね。
でも、なんで学生だけは教育の分野で議論されるのでしょうか。
おかしいでしょ。
問題の切り分けをしないと、正しい結果を得られないというのは、課題解決の基本だと思ってます。
まとめ
教育に対して、社会は何を求めているのかを明らかにするべきです。
それを明らかにすれば、どのように教育を考えるべきかが勝手に導き出されるでしょう。
もちろん、教育無償化の是非も例外ではありません。
僕らのような一般人のレベルから、考えて発信する必要があると思ってます。
例えばTwitterとかブログとかでつぶやいてみるとか。